我が家には、2歳半になるおしゃべりな女の子がいます。彼女は、おしゃべりが得意で3歳半ぐらいの子であれば、口では負けないほどの日本語を習得しています。体は(遺伝的に考えても)小さいのですが、言葉を身に付けるのは早かった方だと思います。

そんな彼女が生まれた時は、この子はどこか異常があるのではないかと思うほど、ずっと泣いていました。とにかく抱いていなければ、お許しが頂けませんでした。また、赤ちゃんは寝る方法も知らないようで上手く寝ることも出来ないようです。親はなかなか寝かせて貰えません。ボロボロになりながら赤ちゃんを抱っこし、ようやく寝てくれたと思い、ベビーベットにそっと寝かせようものなら、泣き叫ぶ。彼女の背中には泣き叫ぶスイッチが付いていました。決して置いてはならない、本当に何かの爆弾かと思ったほどです。このように我が子の0歳の子育ては大変なものでした。

恐らく初めての子育てというのは、親も初めてなので上手く出来なかったということもあるのかもしれませんが、本当に良く泣いていました。私は、まだ33歳とまだまだ若輩者ではありますが、一般的にはそれなりの精神修行も積み、体力の衰えはあるものの忍耐力、精神力は貧弱な方ではないと思ってきました。しかし、いざ24時間置いてはならない我が子を目の前にして、いわゆるニュースで流れる幼児虐待を現実として起こりうるなと思ってしまったのです。子育ての経験がない時には、なぜそんなことが起こるのか全く理解出来ませんでした。子供が欲しくて産んでおいて、無抵抗な子供に対して虐待をするなんて、大人になりきれていない未熟な人間がすることで、身勝手も甚だしいと思っていたからです。もちろん今も虐待は絶対に許されない卑劣な行為だと思っています。

現代の子育ては、昔に比べて家族構成が少ないため子育てにかけられる人手や人の目が少ないのが現状で、子育てを孤独と感じる母親は多いと思います。私自身、夫も私の母も手伝ってくれましたが、やはり日中は自分と子供と2人なので、孤独を感じていた程です。幼い命を守る責任感からくるプレッシャーや誰も頼れない状況、産後の体調など、色々な要素が組み合わさって、そういった精神状態になっているのだと思います。これが産後うつというものなのかもしれません。これは、泣き叫ぶ赤ちゃんから24時間離れることのできない2人だけの環境で過ごした母親だけが感じる感覚だと思います。

しかし、同じ月齢の赤ちゃんを見てみると、本当にこれが同じ人間の赤ちゃんか?と思うほど、大人しくてずっと寝ている赤ちゃんもいました。なんて親思いの良い子なんだと思いました。もちろん自分が見ていないタイミングで泣いているのだとは思いますが、我が子がとにかく泣く子だったので、信じられませんでした。

今、2歳半になったおしゃべりな娘を見ていると、彼女が良く泣き叫んでいたのは、きっとおしゃべりしていたんだなと思います。言葉が話せない代わりに彼女の中で訴えたいものを泣き叫ぶという方法で表現していたのだと思います。今はとにかく喋り続けています。今では嘘も覚えました。2歳半でも嘘がつけるのかと勉強になります。

0歳児の子育ては、自分自身が良く生き延びたなというのが本音ですが、終わってしまえば、あっという間の出来事でした。こうした経験から個性を考えてみると、ある時期には世間から否定されることがあっても、どこで芽がでるか分からないからこそ、一人ひとりの個性を大切にしなければならないなと改めて感じることができました。

 先日、電子黒板のプレゼンテーションがありました。本校には数年前に導入した電子黒板が数台ありますが、使用する先生が毎回教室まで持ち込んで配線、PCの立ち上げをしてから授業をおこなっています。授業準備に相当の時間を割くことになるので教諭の負担が多く、タブレットとの連携がとれないためなかなか効率のよい授業が展開されていないのが現状です。また、今の機能だと使用する必要性のない教科もあり、あまり発展的な授業や参加型の授業が展開されていません。今回の提案は数年前CEATEC JAPAN(幕張メッセで開催されるアジア最大級の規模を誇るIT技術の国際展示会)や教育ITソリューションで見たことのある機能が進化し、たくさん盛り込まれていりました。一番の魅力は教諭の負担が大きく減るところです。電子教科書に必要事項を書き込み、全生徒に配信できる機能や教科書・資料・写真などを持ち込んで書画カメラで取り込み、そのまま書き込み・配信ができる機能もありました。今まではスキャンしたデータを毎回貼り付けて加工していた作業がなくなり大幅な時間短縮になります。また、体育の授業では跳び箱を跳ぶ動作を録画して書き込むことができる機能もありました。板書する時間などの短縮により、参加型でなおかつ協働的な学びが展開されることが期待できます。まだ採用される日は決まっていませんが、楽しみが1つ増えました。

体育科 F

ガーデニングクラブで「蘭の花を育てる運動」に参加するようになって2年目になります。「蘭の花を育てる運動」とは、毎年東京ドームで開催されている世界らん展の取り組みの一つで、学校などの団体がランの栽培を通して、自然を大切にする心を育むというものです。観察記録や育てたランは会場のそのコーナーに展示されます。

10月下旬に開催事務局からランの株をいただき、2月の展示会に向けて世話をしていきます。顧問である私もそれまでランを育てた経験はなく、教えていただきながら生徒たちとともに取り組んでいます。

初めて参加した昨年は、暖かい教室で栽培を始め、早くも11月には花が咲きました。2月の展示まで花をもたせるため、置き場所を移動させるなどしてなんとか調整しました。その教訓から、今年は少し涼しめの場所に置いて、栽培を始めました。花が咲かないまま年を越し、年が明けてから日がよく当たる暖かい教室のほうへ移動したところ、順調に芽が伸び、花が咲いてくれました。今年はちょうど見頃に展示することができたのではないかと思います。昨年育てたランも再び芽を出して咲いてくれて、感慨深いものがありました。世話をしているランがやっと咲いた時は生徒たちも喜んでいる様子で、普段口数の多くないある生徒が少し興奮気味で「咲きましたよ!」と報告してくれてこちらも嬉しくなりました。

先日、高校一年生2人と一緒に会場に展示するランを無事搬入してきました。準備の続く会場内の熱気を肌で感じ、らん展への期待が高まりました。今年も温度や環境に素直に反応をくれるランから多くのことを学ばせてもらったと感じます。

なお、世界らん展2017は本日より217()まで東京ドームにて開催されています。多くの方にご覧いただければ幸いです。

ブログ1.jpg

ブログ2.jpg


みなさん、こんにちは。お元気でしたか?美人教師Yで~す。

a.jpg

東京の街は、クリスマスが終わると、あっという間にお正月へ模様替えですね・・・。みなさんはどのようなクリスマスを送りましたか?きっと思い出深い時間を過ごしたことと思います。11月下旬、街並みもクリスマスっぽくなり、あ~もうこんな時期なんだなあ~早いな~と思いながら自宅に帰ったら、イギリスから懐かしい方から手書きのクリスマスカードが届いていました。

彼女は40年ほど前、ロンドンに住んでいたころ隣に住んでいた3歳年上のお姉さんで良く一緒に遊んでもらった方です・・・。何となく彼女とは年に一回クリスマスカードのやり取りをし続け、気づいたら30年以上の月日が経っていました。しかし、ここ数年はメールアドレスを交換し、クリスマスになるとメールが来て私も簡単なメールを返す程度というのを繰り返していました。そんな中、ポストに入っていた、彼女の懐かしい筆記体の文字をみて、なんだが温かい気持ちになりました・・・。

そう言えば彼女のお家には、おじいちゃんや親せきや友達など大切なたくさんの方々からいただいたクリスマスカードが出窓に飾られていたなあ~とふと思い出します。どれも手書きの雰囲気のあるカードばかりでした。イギリス人にとってのクリスマスカードは日本人にとっての年賀状みたいなもので、とっても重要なものです。コンピューターが発達した今でも、絶対に手書きです。こういうイギリス人の伝統を大切にするところは、凄いなあと思います。

我が家の年賀状は、便利さに負けて、印刷ですが、手書きのカードって、やっぱりもらうと嬉しいですよね・・・。贈る人の顔を思い浮かべながら、一枚一枚メッセージを書く。イギリス人のそういう心のゆとりを大切にしないと!と思う今日この頃です。

皆さんも来年はぜひ手書きのクリスマスカードを書いてみてはいかがでしょうか。きっと書く側もいただいた側もなんだか懐かしく温かい気持ちになれますね・・・。

美人教師Y

最近、仕事と生活のバランスをどのようにとるのかと言う話題をよく聞くことがあります。

ニュースでは、大手の広告代理店の過剰労働による自殺、働きすぎによる疾患など、ワークにウエイトを置いた情報が多く報道されています。

その反対に、自分の時間や趣味を大切にしたいので、と言った理由からフリーターを選択している人もいるようです。

先日、私が応援しているF1レーサーが突然引退を発表しました。

彼は今年、初のワールド・チャンピオンを獲得した矢先の引退発表でした。

私も来シーズンは、鈴鹿で観戦したいなと思っていたので、かなりのショックでした。

しかし、彼の引退の言葉の中には、『すべてを犠牲にして戦ってきた、家族との時間を大切にしたい』と書いてありました。

現在のF1は、最速350km/hの速さで競っています、ちょっとした操作ミスやレースバトルで、死と隣合わせの戦いです。

モータースポーツファンにとっては、そこが見どころなのですがレーサーやその家族にとっては、どれほど大変なことなのかは想像以上だと思います。

レーサーになっている人たちが、インタビューで良く口にする言葉に『レースバトルが大好き』と言っています。これは彼らが仕事としてだけではなく、大好きな趣味や楽しみにも近いものに携わってるということを意味しているように思います。

彼はワールド・チャンピオンになるという目標を掲げ、レースを戦うということは、楽しさから離れて仕事で成果を出すという目的のためにレースに出場することになってしまったのではないのでしょうか?

人の気持ち、モチベーションはどんなに厳しい仕事でも、それを楽しいと感じていると、周りから見てとても、大変なことをしていても当事者は苦痛と思いません、けれど、ひとたび『なぜしなければいけないの、ほかにしたいことがあるのに、時間が無駄、頑張らなければ』と思った段階で、疲労やストレスとなってしまうのではないのでしょうか?

もちろん、ニュースなどで報じられているハードワークにあたる事件が、それに該当しているとは思いませんが・・・

私たち教員も、生徒との時間が楽しい一緒に学びたいという気持ちが強ければ、生活の一部になってきます。夏休みなど長期の休業に入ると、生活リズムが崩れてかえって体調不良になってしまうこともあります。

すべての人に与えられた、唯一の平等は時間です。1日24時間をワークライフバランスを考えて過ごすことは、単純にワークとライフを2で÷のではなく、どちらも楽しめるとバランスが取れるのかなと、私は考えています。  <あくまでも私の考えですが・・・・>

これから進路を決定する皆さん、長い人生を意義のある楽しいものにするために、心も体もしっかり鍛えてくださいね。本当の楽しさは苦労しないと味わえないのも事実ですから・・・

                                                                           Iより

こんにちは、ドラすけです。
2年前から小野学園には放送部ができ、今はその顧問をしています。

と言っても実はその前は放送委員会という名前で活動をしていました。
このときは各クラスから委員の生徒がいたので、人数の確保には苦労しなかったのですが、部活動となったときは人数が集まるのか不安でした。

それでも何とか人数は格好がつく程度には集まり、何とか活動を維持することはできました。
しかし、以前から校内の活動に限定していたので、生徒達の動きに限界がありました。

そこで今年から思い切って外の大会に出ることにしました。
まずは6月のNHK杯の放送コンテスト。
ここに高校3年生の2名を連れて行って参加しました。
自分にとっても初めてのことなので、まずどういうものなのか雰囲気をつかもうとすることが目的でした。

その中で驚いたのは各学校ともすばらしい発表をしていたことでした。
もちろん小野学園から参加した2名もとても頑張ってよい発表をしてくれました。
放送というと内輪の活動で終わってしまうものだとばかり思っていましたが根底から覆りました。

ぜひこの活動を他の部員にも見せたい!

そんな気持ちから9月の東京都高等学校文化祭には高校2年生以下全員を参加させることにしました。
目標は賞を取ることではありません。
まずは外の世界を見て、今後の活動に影響させてもらいたかったのです。

早速、各学校の朗読やアナウンスの発表が始まりました。
甘い気持ちで大会に参加した部員達はあまりにもガチな内容に驚いた様子でした。
それでも後半には、すでに発表の終わった部員が他の部員の練習の面倒を見るなどお互いの動きが明らかに変わってきました。

そして各自が講評をもらって読んだときの落胆と喜び。
今回の経験はきっとこの部員達によい影響が残ると確信しました。

いよいよ今年度も活動は後半戦。
やがてはこの活動が先輩から後輩に受け継がれ、いつか誰かが賞をもらうことができたらもっと成長できると思います。
そんな日を楽しみにしています。

Dscn1983.jpg

 ずっと昔、教科書にラスコー洞窟の壁画のことが出ていた。2万年前のクロマニョン人が描いたすばらしい洞窟壁画の話。実際自分の目で見ることができたらどんなに素敵なことだろうと思っていたが、ラスコーはフランスなので、おいそれと見に行くことができない。忘れかけていた今年、国立科学博物館が「ラスコー展」(2016111日~2017219日)を開催するという、早速見てきた。

 壁画は、最新テクノロジーを駆使して1ミリ以下の精度で復元されていた。色遣いといい造形の美しさといい言葉にならない迫力で見るものに迫ってきた。その他、暗闇を照らすランプ、世界初公開の顔料、美しい毛並みが表現されたバイソン、小さなビーナスなど展示品もこれが2万年前の人が作った物なのかと疑うほど精巧で美しい物だった。ぜひ体感してみてください。                                【kyou】

私が今まで教わった教員で大事な方(必ずしも好きであるとか、良い教員であったとかいう意味ではありません。勿論悪い教員ではありませんでしたが...)が2人いらっしゃいます。

1人は小学校5年生のときの担任です。私は小学校のとき算数が大の苦手で、成績も良くありませんでした。然しその先生は、「あなたは算数の力があるのだから努力するのよ」とおっしゃって下さいました。普通ならそんなに気にしないのでしょうが、単純な私は、何となく彼女の言葉が心に残りました。でも相変わらず算数は苦手、嫌いでした。

そんな私は小学校を卒業したとき、中学での勉強、特に数学に大変不安を感じていました。自分は中学生になったら絶対クラスでビリになるとさえ思っていました。偶然隣の家のお姉さんが中学校を卒業して、恐らくは処理するのが面倒だっただけなのでしょうが、私に彼女の中学時代の教科書をくれました。中学の勉強に不安があったので、数学は教科書を見て自分で問題を解きました。それが功を奏したのか中学に入学して数学の授業はよく理解出来て、初めての中間試験は満点でした。そのとき、小学校のときのその担任の先生の言葉を思い出しました。

それからは数学が大好きになり、得意になりました。中2のとき、数学の教員になりたいと思うようになりました。そして、私は大学、大学院で数学を専攻し、数学の教員になりました。彼女の言葉がなければ今の私はなかったでしょう。

もう1人は中学時代の音楽の先生でした。彼女は「クラシック音楽を聴いて感想文を書く」ことを夏休みの宿題に出しました。当時の私はクラシック音楽が何であるかも知らないような無知な中学生でしたので、母に尋ねたところ、「ベートーベンとかモーツァルトの音楽で、NHKの名曲アルバムで放送している」と言うので、聴いてみました。今でも鮮烈に覚えていますが、ハイドンの弦楽四重奏曲"ひばり"の第1楽章でした。あまりの素晴らしさにすぐに大好きになりました。グリーグのノルゥエー舞曲、シューマンの子供の情景、ヘンデルの水上の音楽...など私を魅了した作品は今でも私のお気に入りです。そのときに書いた感想文をその先生はとても強く褒めて下さり、文化祭のときに展示までして下さいました。

それもあって、それからはクラシック音楽にのめりこむようになり、今ではそれなしではいられないほどです。クラシック音楽を聴くようになってからドイツに興味を持つようになり、随分長くドイツ語を習いました。ドイツの文化にも触れ、また多くの素晴らしい方とも出会えたのは幸いでした。こうした素晴らしい文化と出会えたのはひとえにその先生のおかげで、感謝の念に堪えません。              

このお二方は、正直に言えば、生徒からはあまり好かれてはいませんでしたが、私にとっては彼女たちとの出会いがなければ今の自分はないという意味で、重要な恩師です。そしてお二方との出会いは自分にとって極めて大切なものです。私も生徒たちにそのように思われる存在でありたいと思っています。                  数学科 H.T            

 先日、高校2年生を対象にリクルートの方による進路講演会がありました。社会で働くうえで必要な力を自身の経験を踏まえて話してもらいました。私も担任として生徒と一緒に話を聞きました。雇う企業側にとって重視しているものが3つあるそうです。

 1つは「コミュニケーションスキル」です。断トツで重要視していることがデータにもあるそうで、その中にも自分の意見をまとめ、「伝える力」も大切ですが、それ以上に「聴く力」が求められているそうです。2つめは表情や態度から気持ちや思いを察し、自分にできることやるべきことを積極的に行動する「主体性」、3つめは相手と自分の役割を認識し、チームで目標達成まで力を発揮する「協調性」が求められています。必要なスキルとしてよく耳にする言葉ですが、具体的にどのようなことをするべきか明らかになったことは生徒たちにとってもよかったのではないでしょうか。私も教壇にたって仕事をしながら、改めてその重要性を認識させられました。

 高校卒業後は大学に進んだり、企業で働いたりする人が多いでしょう。そこで力を発揮するためには先ほど触れた3つのスキルが必要になってきます。逆に考えると3つのスキルがある程度身についていないと、力を発揮できずに苦労することになります。ぜひ今のうちから意識して経験を積むようにするといいですね。

社会科E

 今年も本校の学園祭「志ら梅祭」が終わった。企画段階から準備段階、そして当日、後夜祭へと続いた一連の活動で流された汗や、試行錯誤し続けたあたまとからだ、そしてともに力を尽くし合った仲間たちこそが、学園祭で君たち(生徒たち)が受け取った今年の収穫ということになるだろう。

 しかし、学園祭の主人公は確かに君たち生徒であったが、それを支え、導き、育んでくれた大いなる力の存在を忘れてはならない。最も身近にいるがゆえに忘れてしまいがちな親・兄弟姉妹・祖父母などの家族、担任・分掌担当の先生たち、幼稚園・小学校の園児・児童と先生たち、また事務室のみなさん、バザー・売店他の仕事を担当してくれた保護者のみなさん、さらにはフードコートを運営してくれた業者さん、養生やパネルの設置、取り外しに携わってくれた業者の方々、そして何よりもこのイベントを見に来てくれた多くのみなさん(集計では2日間で3710名)がいてくれたからこそ私たちは素晴らしい時間を共有できたのだという事実をゆめゆめ忘れてはならない。

本来、祭りは神様に対する豊穣や幸運への祈りであり、あるいは収穫への感謝の表現である。その祈りや感謝の思いこそが人々を結び付ける絆となってきた。同時に人々を拘束する枷でもあった。私たちは家族、地域社会、学校、会社、自治体、国家などに所属し、その構成員としての義務と権利を享受している。そこでは個々人のわがままや自由は一定の範囲で制限されている。制限されているが故に、言動や思想や生命などが保障されてもいる一面もある。翻って、私たちの学園祭を考えてみよう。学園祭という大きな目的が達成されるためには、さまざまな人の多くのアイディアと実践や助力・助言、またいろいろな点での我慢や忍耐、あるいは自発的な行動が一つの目的に向かって凝縮されたはずである。何かをやり遂げるには大きなエネルギーが必要であるが、そのエネルギーを創りだし、活用するのはすべからく私たち関係者(参加者)なのだ。したがって、私たちは神への祈りや感謝の儀式であった祭りを通じて、組織と個人が明日を生きるための力(エネルギー)を与えてもらったとも言える。何かのために力を尽くすことができる機会を得た人は幸いである。また、誰かのために自分の力を出すことができた人も幸いである。そして、それらの幸いを自分たちの喜びに変えるこころを持つことができる人はさらに幸いであると言える。

祭りの熱狂が去って、私たちは今また、日常という静寂の中を再び歩きはじめている。この日常の積み重ねこそが、私たちの前途に夢を描かせ、志を育ませるための動因となりうるものである。今日をしっかりと存分に生きよう。そして自分の目標や夢に向かって歩み続けよう。やがてまた、祭りという至福の時が訪れることを願って。                                October 6, 2016 (K.Tanaka)