皆さんは普段使っているカタカナの言葉に注目したことがありますか?その多くは、英語をもとに作られたものですが、その一つ一つを調べてみると結構色んな勉強になるのです。
例えば、いつも皆さんが使っているコンセント。実は、英語ではoutletと言います。

Where are the outlets? (コンセントはどこ?)

日本語の「コンセント」は、明治時代に使われていた電気製品の名前に由来するとのことです(国立国語研究所『よくある「ことば」の質問』より)。「コンセント」と同じような発音の英単語としてconsentがありますが、それは「合意」という意味を持つので、コンセントを探すシーンで使っても、全く通じないですね!
なお、consent(合意)の派生語としてconsensusがあります。それは、今日ニュースや新聞などでよく見かける「コンセンサス」として日本語でも使われていますね。これは「複数の人による合意」を意味します。例えば、「この政策を進めるにあたって、国民のコンセンサスを得る必要がある」などと使われます。
このように、『「コンセント」を英語で何て言うのかな?』という疑問を出発点にして、様々なことを学ぶことができます。皆さんも、普段何気なく使っているカタカナの言葉を調べてみて、知識の探求を楽しんでみてください。

小林 翠(英語科)

 秋の装いが深まって、いよいよ実りの秋を迎えています。秋は収穫物を集める時、つまり、有秋の情景に彩られた嬉しくも哀しい時と言えます。こうした季節の移ろいは、私たちの人生の有為転変の象徴として語られることも多く、四季の微妙な移り変わりを自然の色彩と同時に、心情を語り伝える言葉として表現されています。また、季節は巡ってくるとも考えらえていますが、それは自然界が有する圧倒的で不可思議な再生の力に対する私たち人間の畏怖と憧憬であるとも考えられます。
 さて、私たちは何事かを為さんとするとき、目標達成に向けての緻密な計画とともに成就のための強い意志と粘り強い集中力、そして不断の努力こそが成功のカギであることは疑いようのないことです。また、「継続は力なり」ともよく言われますが、これも先人たちが長い紆余曲折の歴史の中から、人生の歩み方・生き方の極意として学び、体得した珠玉の真実であると思います。己の信じる道を誠実な熱意を込めてコツコツと歩み続けることの素晴らしさに大いなる憧れを抱くのは私だけではないと思います。しかしながら、この一つの道を脈々と歩み続けるという行為は、決して同じことの繰り返しを意味するものではありません。一見するとそのように思えるかもしれませんが、私たちの生きる営みには昨日と同じものなど存在せず、細やかではあっても昨日より進歩・前進しているはずです。稀には後退していることもあるでしょうが、いずれにしても同じことと見えるものも、実は着実にその在りようを変化させた姿で私たち自身に迫ってくるものなのです。それゆえ、「同じことを続けること」は、私たちが進歩や前進という可能性を育てるための確かな方法であると言えます。
 毎日のルーティンは、時につまらなく惰性に流されてしまいがちですが、この退屈ともいえる繰り返しの中にこそ成長や変化の「種」が入っているのです。そして、やがてはその種が地面に根をおろし、緑を茂らせて、成長と希望の光をともす力を私たちに与えてくれます。日々の授業、宿題・課題、予習・復習、さらには部活動、行事への取り組み、家事の手伝いなどすべてが今日を踏まえての明日の変化(実り)を約束するエネルギーです。飽くことなく今日を一所懸命に明日へと続く道を一緒に愚直に進みたいと願っています。

 先日、新しくできた書店をのぞいたら、数か月前に発行された雑誌の特別号がディスプレイされていて思わず購入してしまいました。この雑誌が発行されたとき、いつも使っている書店で見かけていたはずなのに。やはり本の見せ方、並べ方は大切なんだなと実感しました。
 さて、肝心の雑誌ですがタイトルは『文藝別冊 総特集 俵万智』。私自身は大学でも短歌の研究会に出ていたこともあり、彼女の歌に触れる機会はたくさんありました。生徒と話題にしたこともあります。それがなぜ今、この雑誌が気になってしまったかというと、表紙に今年は『サラダ記念日』刊行30周年とうたわれているのに気付いたからです。
 私が高校一年生のとき国語の授業を担当してくださった先生は、大学を卒業したばかりの女性の先生でした。その先生がときどき「私の大好きな俵万智さんがね」と話されていたのを、表紙を見ていたら思い出しました。そういえば世間では『ノルウェイの森』や『キッチン』とともにこの歌集が話題になっていました。そして、その先生の授業で「羅生門」や万葉集の歌、与謝野晶子の歌を習ったことを思い出しました。私の授業は少しでも生徒たちの記憶に残るだろうか。残るものがあってほしいと思います。
by U

「このJRのガードをくぐると、今日漕いでいく先には、橋はありません」先を行くカヌーに乗ったガイドが説明をしてくれる。これから約17キロ、1日がかりで釧路川を下るカヌーの旅のスタートだ。十数年前に四国の四万十川をカヌーで下ってから、ずっと来たかった釧路湿原の中を漕いでいくカヌーの旅の始まりなのだ。

釧路川は両側を釧路湿原に囲まれている。小学校の時に習ったようにやわらかい河岸を侵食して、大きくゆったりとS字にカーブ描いて川は流れているので、漕いでいく先の景色が見えない。だからカーブを曲がるたびに新しい景色が開けてくる。といっても、湿原なのでそんなに急に景色が変わるわけではない。待っているのは北海道の自然の中に生息する動物たちだ。

最初に見つけたのはエゾジカだ。水を飲みに来ているのだろうか、親子なのだろうか、体の大きな2頭と少し小さな1頭が水辺にいた。

次に出会ったのはオジロワシだ。ガイドさんが見つけて教えてくれた。私達のカヌーの上空を、翼を広げて悠々と飛んでいた。

また次のカーブを漕ぎ進めていくと丹頂鶴にであった。今年生まれた子供を連れた親子なのだという。カヌーが近づき過ぎると丹頂鶴の生活を乱してしまうので、見たい気持ちを抑えて、岸部から離れるようにカヌーを操作する。そのうちに飛び立って私達のカヌーを飛び越して行った。ガイドさんが少し興奮したようにいう「今年生まれた子供が初めて飛びました」と。

丹頂鶴は冬に雪や氷の上で群れている写真を見ることが多いせいか渡り鳥のような感じがするが、そうではない。夏の間に産卵、子育てをする上、夏は草木が茂りその陰に隠れるので、あまり見ることができないのでどこかに渡っているように思われるらしい。冬に見ることが多くなるのは草が枯れ、見やすくなるのとえさが少ないので、人がやるえさ場に集まるので見つけやすいからだ。

この旅では他にもキタキツネやサギ等の鳥、さまざまな種類のトンボなどたくさんの生き物に出会った。もちろん湿原に咲く可憐な花や栄養の少ないところに必死に根を伸ばす草木たちなどにも出会った。自然に包まれ、自然に抱かれた1日のカヌーツアーだった。

人間は太古の昔から自然の中で暮らしてきた。もちろんゆったりと温かい自然ばかりではないだろうが、人は自然がないと生きていけないのかもしれない。人工的なものに囲まれ、バーチャルな世界で生きている現代の私達は、時々自然に包まれるような時間が必要なのではないかと思う。そうして、自然からパワーをもらって、また現実に戻って行くのだ。

M

社会科のOです。

いつもは小野学園の近くの城南地区や神奈川北部の史跡をご紹介していますが、今回は東京の北の玄関口にあたる赤羽です。

赤羽駅は交通の便が良く、同駅を利用して登校する生徒も少なくありません。

今回ご紹介するのは北区岩淵町にある旧岩淵水門(通称"赤水門")です。

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明治時代に荒川が増水し、下流の隅田川に甚大な洪水被害が出たのを契機に、都心を隅田川の洪水から守るため、上流の荒川の水を江東地区に流すための「荒川放水路」の建設が始まりました。この工事は大正時代に完成し、水門から下流が隅田川、下の写真の赤水門の左手に広がる広大な河川が「荒川放水路」(いわゆる荒川)となりました。

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上流の荒川が増水した場合、水門を閉めて隅田川へ流れる水量を調節し、左の放水路から東京湾へと流します。

現在、赤水門はその役割を終えており、遺跡となっています。次の写真の右奥の岩淵水門(通称"青水門")がその役目を継承しています。

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都心の上流ということで、日本で最も厳重に管理されている水門と言えるでしょう。

私たちの暮らしはこのような土木施設によって守られています。

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最後に、朝焼けの赤水門です。

役目を終えた遺跡ですが、現役の青水門より人気があるようです。

先日、縁あって障害者水泳大会の競技役員を経験しました。障害者教育の知識がなく、今まで関わるきっかけもなく、正直なところ悪い言い方ですが、縁遠いところがありここまで来てしまったのが現状です。
2020年東京五輪が決まって以降、日本が"東京2020"のために大きく変わりつつあると同時に、私自身も少し意識が変わってきたのかもしれません。ルール上の不安があったものの、専門知識を持ったアドバイザーが補助についてくれることもあり、勉強のためにお手伝いをすることになりました。病気や怪我、または先天的に肢体が不自由であったり、欠損していたり、事情は様々ですが、細かくレベル分けされてレースが行われます。そのために障害の「クラス分け」をする部署があること、資格者が存在することを知りました。クラスはS・SB・SMがそれぞれ1~14に分かれており、数字が若いほど障害が重く、11~14(15・21まであり)は視覚・聴覚・知的障害別となっていました。クラス分けを覚えるまでに時間がかかりました。その他スタートの仕方、ゴールの仕方、それを補助するコーチやボランティアの方々・・・ここには書ききれないたくさんのことを初めて知ったり、覚えたり・・・。まったくの勉強不足の状態で臨んだ自分を恥じたしだいです。しかし、もっとも衝撃を受けたことは、選手の競技に対する姿勢です。体が不自由でも自分のできることを一生懸命やる。たぶん今回の大会にエントリーしてきた選手は、"東京2020"という目標を目指して臨んでいるのでしょう。いろいろな意味でパワーが違いました。
五体満足、健康であることが当たり前の私達。小さなことでくよくよしたり、怠けたり、不平不満を口にしたり・・・つまらない時間の過ごし方はもったいないと思いました。今回の経験から得たことを、生徒にどのように伝えるかが今後の私の課題。前向きに!もっともっと頑張れる!そう言いたくなった経験でした。 体育科K

 理科Kです。今年、たまたまO先生の物理の授業の時間に自分の授業が入っていなかったので、生徒と一緒にO先生の物理の授業を受けています。4月の一回目から今日まで一度しか休んでいません(休んだ一回は広報関係の出張でした)。
 授業を受けて思ったのは「自分で参考書を読んで勉強をするより、すごく楽だな」ということでした。とくに「楽だ」と感じたのは、先生が重要なところを言ってくれるということです。参考書も重要な部分は赤字だったり大きな文字で示されたりしていますが、「慣れていない人はこういう風に間違える」とか、「これは前の章のここと、こういう風に違う」など、授業で言ってもらうことによって、なぜ重要なのか教えてもらえます。
 それから、50分で授業が終わるのは良いなと感じました。途中で止まり、家で宿題をやる時間を手にできます。ここまで宿題も欠かさずやってきたのですが、たかだか50分の授業の宿題でも、大変に感じるときがあります。しかしそこがわからないと、次の授業もわからなくなるのです。私は6年生の化学の授業で「化学は積み重ねの科目だから、わかるまで進まない」と言っているのですが、化学や物理だけに限らず、学問は積み重ねであるということを実感させられました。
 授業時間内になるべく理解することと、家庭学習を毎日怠らない。この二つをちゃんとやると、その科目がわかるようになってきます。生徒にとって、この二つがやりやすいように、生徒の気持ちをよく考えて、授業と宿題を決めようと思いました。これが授業を受けて宿題をやって思ったことです。

 高校生は子どもなのか、大人なのか。「もう高校生(大人)だから」という表現は、学校、ご家庭で一度くらいは聞いたのではないでしょうか。一方で、「まだ高校生(子ども)だから」という声も、どこかにちらつきます。その時々で、生徒も、周りで成長を見守る大人も、子どもに見たり見てほしかったり、またその逆であったりしているかも知れません。
 
 高校生活が社会に出る準備期間だとすると、進路的な見方をすれば高校1年生はまだ"子ども"と言えるでしょう。これから出ていく社会のこととそこで活かしていく自分の力を、まだ知らない、あるいは気づいていない部分が多いからです。しかしそれは同時に、たくさんの可能性があることでもあります。社会において自分がどの分野で活躍でき、そのために現時点では何が足りていないのか。悩みながらも進路決定をしていき、卒業を迎える時に"大人"として巣立っていくように思います。

 高校生活の1年目は、今までや中学とは違う迷いや葛藤もあるでしょう。そして先々、また別の悩みを抱えるかも知れません。データを示し、助言をすることも大切ですが、そうした気持ちに寄り添える教員を目指したいと考えています。

 先日、高校1年生を対象に、進路説明会を実施いたしました。説明会の後、先生方と真剣に話している生徒の姿をたくさん見かけました。今後、個別面談の他、相談がある人もいるでしょう。その折は、先述の思いを忘れぬように接していきたいと思います。

 私は保健室で関わった子どもの後ろ姿を、ほぼ毎日のように見送っています。見送る理由を意識するときもしないときもあります。余裕がないときは見送る回数が減り、それと連動するかのごとく、子どもと深く関わる精神的な余裕もなくなるように感じ反省しています。

 後ろ姿といえども、多くの情報を得られる場面であると私は思います。子どもによっては、保健室での様子と全く異なる歩き方・歩調・友人関係が目に入ることがあり、後ろ姿は子どものより深い?広い?理解には欠かせない情報の一つではないでしょうか。

 捻挫で強く痛みを訴えていたのに後ろ姿は小走りで、症状がさほど重くないことを確認できたり、付き添いの子ども達と手をつないで仲良く教室に帰る姿に心が温かくなったりするときがあります。また、精神的に悩んでいる子どもには振り返らない背中に向かって「無理しなくていいんだよ」「つらければ、いつでもおいで」と心の中で声をかけることもあります。

 こう考えると、子どもを見送ることは奥が深いですね。意識して見送ることで観察の仕方や得られる情報は異なります。

 明日からも、子どもとのよりよい関わりを模索しながら、意識して見送りたいと思います。

 子どもに元気をもらいつつ、元気を届けられる保健室であるために...

         保健室 H

 皆さんはナルシストというとどういう人間を思い浮かべるだろうか。自分のことが好きで、大柄な態度を取る人間のことを想像するのではないだろうか。  では、自己否定する人間というのはどうだろうか。自分に自信が無く、消極的な人間のことを想像するのではないだろうか。  ナルシストと自己否定、真逆とも思える言葉だが、自己否定型ナルシストという人間がいるというのだ。自己否定型ナルシストの発言の例としては「どうせ自分はバカだから...」などがあげられる、一見ただの自己否定の発言である。ただし、専門家に言わせればその発言の影に、周りから「バカじゃないよ、大丈夫だから」と言われて自分を安心させたいという自己承認欲求が少しでも存在していれば、それはナルシストだというのだ。  皆さんも思い返してみてください。自己をバカにする発言をする相手というのは自分と仲の良い相手であり、自分のことを認めてくれる相手なのではないだろうか。  私は、その話を聞いてから恥ずかしくなりそういう発言をできる限りしないようにしている。皆さんも自己否定型ナルシストになってないか振り返ってみてはどうだろうか。 数学科S