2016年5月アーカイブ

 514日(土)に校内球技大会が行われました。今年は午前中にドッヂボール、午後にバレーボールの二種目を実施しました。種目は毎年生徒の意見を聞いて決めていますが、毎年ドッヂボールが入っているのは1年生がすぐにできる種目なので上級生が気を利かせて入れているのだと思います。バレーボールは実に10年ぶりの実施で、昨年までバスケットボールが長く、その前はミニサッカーが数年続きました。

 ドッジボールは予選を3チームと4チームのリーグ戦で行い、各リーグの1位が決勝トーナメントに進めます。決勝トーナメントでは6年A組が優勝し2位は4D組でした。バレーボールはトーナメント戦で行いました。1年生はサーブが入らない生徒が多いので2年生と合同でチームを組みましたが、1回戦は高校チームに勝つことができ大変喜んでいました。バレーは5年生が強く決勝は5B組対5D組で、優勝は5D組でした。各学年でよく特徴がでていました。 

 球技大会はクラスマッチ形式で行い各クラスの横のつながりを強めるために行っています。選手として出場した人はもちろん一生懸命にプレイしていましたが、それを応援している人も応援に工夫を凝らしクラスが一致団結して各クラス盛り上がっていました。球技大会をとおして各クラス横のつながりがいっそう強くなったと思います。

 1ヶ月後は体育祭がありまが、体育祭は学年を越え縦割りで赤・白・緑と3色に分かれて行いますので、今度は先輩と後輩の縦のつながりを強めて欲しいと思います。

H280514球技大会 (2200).JPG

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「情けは人のためならず」

最近は「情けをかけると甘やかすことになるから、人には情けをかけるものではない」という風に使われるようだが、本来の意味は「情けは人の為だけではなく、いずれ巡り巡って自分に恩恵が返ってくるのだから、誰にでも親切にしたほうがいい」という意味だ。

第2次世界大戦末期。東北仙台の捕虜収容所での話である。ある日、捕虜の監督官Mは、捕虜であるオーストラリア人のリーダーPに、「コーヒーに砂糖を入れて飲みたい」と要望された。  

戦争末期の捕虜収容所の生活は過酷であり、捕虜の生活は、苦しいものだったらしいので、もちろん断られるのは覚悟の上である。ところが、Mは自分も飲みたいという希望があったのと捕虜の厳しい状態を見て何とかしてやりたいという思いがあったのか、(しゅ)()(軍隊の駐屯地・施設・艦船内等に設けられ、主に軍人軍属たる下士官兵や同相当官を対象に主に日用品・嗜好品を安価で提供していた売店)に掛け合って、コーヒーと当時貴重であった砂糖を飯ごう一杯もらってきて、捕虜にコーヒーを飲ませたのだ。

その上、そのコーヒーと砂糖の管理を捕虜に任せたのだ。Mにとってみれば、捕虜の生活が過酷でかわいそうという思いもあったのはもちろんだが、任せておけば、自分が好きなときにコーヒーを作って飲ませてくれるという気持ちも大きかったのではないかと思う。いずれにせよ、仙台の捕虜収容所の監督Mのもとにいたオーストラリア人の捕虜たちは、苦しい生活の中でも、好きなときに自分たちで入れたコーヒーを飲めるということになったのだった。

第2次世界大戦も日本の敗戦で終わり、Mも田舎に帰ってこれからのことを考えていた時のある日、GHQのジープがMの家にやってきた。捕虜虐待の容疑でMを逮捕しに来たのだ。捕虜収容所は、戦争末期に日本全体が苦しかったことから、食糧事情や衛生状態が悪い上に、旧日本軍の体質から暴力的な懲罰も多く、捕虜総数の10%程度の死者を出したらしい。そのため、監督者などの関係者は、捕虜虐待の容疑で極東国際軍事裁判にかけられたのだ。

裁判は一審制で弁護士はつけられたが、報復感情や通訳の不備などから、不当な扱いを受けたり、無実の罪を背負わされたりすることもあったようだ。

Mの裁判は、捕虜の監督官としての振るまいが、捕虜虐待にあたれば、有罪、そうでなければ無罪というものだったらしいが、捕虜の監督官は、有罪になる確率が多く、現にMの同僚で同じ立場にあったものは、懲役30年の宣告を受けたと聞いた。

しかし、Mの審理では、オーストラリア人のリーダーPが「ミスターMは、親切な人です。優しい人です。私達にコーヒーを飲ませてくれただけでなく、砂糖の管理まで任せてくれました。こんな親切な人が捕虜虐待などするはずはありません」という証言を涙ながらにしてくれたおかげで、即日釈放となった。無罪である。

「情けは人のためならず」を地でいくような話である。Mは晩年この話をしたあとに「人には親切にしろよ」とよく言っていた。Mは昨年12月になくなったが、遺言のようにこの言葉を残していった。こんなドラマチックなことがいつも起こるわけではないし、必ず巡り巡って情けが返ってくるわけではないけれど、私も「人には親切にしよう」強く思うのだった。

戦後オーストラリア人のPは日本人の女性と結婚したが、1947年頃、Mが消息を尋ね証言のお礼に行く前に亡くなったそうで、お礼の言葉を言えなかったのを残念がっていた。

Mは私の父である。91歳でなくなった。合掌

           国語科のM